リハビリテーション科コラム

きくちから~本来のリハビリテーションの意味を考える~

リハビリテーション科 作業療法士 青木 健

2022/9/20掲載

このコラムを書いている時点(※2022年8月中旬に執筆)、Covid-19 いわゆる新型コロナウイルス感染症の第7波の中にいます。これまでなんとか持ちこたえていた当院のリハビリテーションの現場にも、今回の波は大きな影響を与えています。リハビリテーションは、適切な時期に適切な支援を行う必要がありますが、このような場合は感染症対策が前提となるため、十分な支援を行うことができないことも多くあり、現場としては忸怩(じくじ)たる思いで、それでも最良の対応をしようともがいているところです。

本来のリハビリテーションの意味とは

さて、医療またリハビリテーションは、本来なら人生の中で不要な方が良いのではないでしょうか。しかし、身体であれ精神面であれ、生きること、生活すること、前進すること、自己実現や夢をかなえることにおいて支障となる出来事に直面した時、それらは必要とされます。

  • きくちから
  • リハビリテーションは、世間では『回復支援』と同義語であり、心身の機能回復、体力の回復といった意味が強いように思われます。おそらく大方は、アスリートが復帰に向けてトレーニングを行うようなイメージであり、麻痺や骨折といった入院を必要とするリハビリテーションも、そのような訓練のイメージが強いかもしれません。リハビリ職でもそのイメージが強い場合もあり、トレーニングの提供が主となる場合も少なくありません。ではその『訓練』や『トレーニング』は何のために行うのでしょうか。

このコラムを見る方の背景は想像がつきませんが、背景が多様であることは間違いないと思います。旧ソビエトの生物学者オルギー・ガウゼが行った、『ガウゼの実験』というものがあります。ゾウリムシを同じ水槽で飼って行った実験で、詳細は割愛しますが、ここで出た法則は「オンリーワンしか生き残らない」ということでした。これは生物界では鉄則となっているようです。そうすると、この世界はなぜこんなにたくさんの生物が生存しているのかという疑問が出てきます。

実はガウゼの実験には続きがあり、2種類のゾウリムシを同じ水槽で飼ったところ、どちらも滅びることなく共存するという結果が出ました。それぞれの住む層が異なることで、共存することができたという結果について、生物界ではこれを「棲み分け」と呼ぶようです。自然界には175万種の生物がいると言われており、それがそれぞれ「棲み分け」しながら共存しています(参照:稲垣栄洋 はずれ者が進化をつくる)。人間はさらに助け合うということを通して、多様な「社会」や「文化」を構築しています。

病気やけがによって、様々な可能性を再考する必要が生じることは少なくありません。私は以前、小児リハビリテーションを担当しておりましたが、生まれつきの障害、難病、10歳前後での不慮の事故や病気での麻痺・切断・認知や人格での変化など、相対してきた小児患者さんは様々でした。患者さん本人、また親御さんには「どのように生きたいか」を時間をかけて考えを引き出せるように努めていました。
話がうまく入らない場合にも、理解力に難しさがあっても、時間や機会がどれだけ必要だったとしてもそこは大切にしてきました。なぜなら、人生はその患者さんや、共に過ごす親御さんの時間にあると考えているからです。本来であれば、医療的対応やリハビリテーションが不要な場合の方が、自分の力で路を拓く可能性は広がりますが、それに制限がある以上、その可能性を共に考え、探索していくことが本来のリハビリテーション:Rehabillitation、ラテン語でRe:再び、habilitation:人間らしく=再び人間らしく生きる・できるようになる、その人らしく生きることができる意義だと信じています。

主に成人以降を対象とする当院のリハビリテーションでもそれは大切なことです。麻痺などの後遺症のために身体的な制限がある場合、「完治する」、「元に戻る」ことが願いとして出てくることは当然です。私が患者さんの立場でしたら、その願いは揺らぐことがないと思います。ただどうしても『神様の領域』というものがあり、その願いを完全に叶えることが難しいこともあります。(これに抗う(あらがう)ため、リハビリ職は技術を研鑽しています)。
その場合、「それ以外で希望がありますか」と聞かれることは患者さんの立場からすると非常に酷ですが、医療者は時としてそのような聞き方をしてしまうので、私を含めて反省しなければいけないこともあります。では「これからどのようなことをしたい(できるようになりたい)ですか」という問いはどうでしょうか。「歩けるようになりたい」「ごはんを食べられるようになりたい」の答えが出てくることが多いですが、「だから良くしてほしい」という方向になりやすいです。それも本音です。その上で「歩いてどのような経験をしたいですか」「誰とごはんを食べに行きたいですか」という質問をすると、新しい視点が広がることも往々にしてあります。これは、おそらく我々リハビリテーション担当者が大切にしなければいけないプロセスだと思います。

リハビリテーションが大切にしなければいけないこと

生きるということは、生存のみを意味するのではなく、社会の中で、家族の中で、友人の中で、自分の望む価値の中でといった前提があり、障害や病気に相対した時には上記のような新しい視点につながる想像がしにくいことが多くあります。そこに時間をかけ、同じ目標が共有できるように、そして実現できるように支援することがリハビリ職の役割だと思います。
先ほどのガウゼの実験の話にあったように、同じ世界で生きると生き残れない(人間の場合、強い挫折と言い換えられるかもしれません)ですが、住む場所が変わると、自分らしく生きていくことができます。その変化に心がついていかないこともあるかもしれませんが、それを含めて、ともに共有できることをリハビリとしては目指していきたいところです。幸いにして、テクノロジーの進歩で以前よりもフィールドは広がっています。

リハビリテーションの未来

後遺症があっても自動車運転の再開が目指せることが増えてきています。(当院はまだ整備されていないフィールドになりますが、現場からはハード・ソフト両面で準備をしていきたいと思っています)。在宅にいながら就労として接客できる場所も増加しています。意思表示が難しくても、それを表出するICT技術も身近なものになっています。ただその前提となるのは、我々のきくちから、思いを引き出し実現できる力だと思います。

私は、患者さんたちや障害をもっている方たちの、「こうありたい」という思いを実現するために、「どうありたいか」をともに考えられるリハビリテーションチームを目指したいと考えています。その上で、病気や後遺症が、その方の選択肢の引き算のみとならないよう、ともに可能性を実現できる支援者になりたいと願っています。